シベリア回想録掲載者のことば
この「シベリア回想録」は、水戸市在住の野口三保子さんのお父上
桜堂 泰さんがお書きになったものを、市川が投稿しているブログ「草
と闘う」 http://ichikawanouen.seesaa.net/ に、ブログの一
部分をさいて2007/07/13日から掲載したものであります。
この方のものの見方考え方が大変ユニークで、色々な困難に直面し
ても痛快さを覚えるものであります。困難な戦争中、シベリア抑留中
もその精神は衰えませんでした。又人一倍やさしさがあり、非人間的
な関東軍のあり方、ロシアの対応など見るべきものかあると思います。
ここに掲載者として短いご紹介をしておきます。
「シベリア回想録」掲載のご案内
旧満州で満鉄に勤務していた桜堂 泰さんという方が書いた「ベリア回想録」という本が手に入りました。この桜堂さんはすでに故人となっている方ですが、身内の方からお話を伺いました。それによりますと、満州で満鉄勤務のさなか40歳台のとき兵隊となり、やがて敗戦。その後シベリアに抑留され、つらい体験をしております。その回想録であります。身内の方の了解を得て、この体験記を皆さんに読んでもらいたいと思い、「シベリア回想録コーナー」を設けて掲載することにしました。
今の時代、みんな私たちよりも若い世代になりました。戦争の体験がない世代が時代をリードしています。戦争というものはどんなに過酷なものであるのか、改めて取り上げなければならないという気持ちになります。物書きではない素人の作品です。素朴な視点で書かれていて、当時の世相などがよく反映された貴重な資料でもあります。
またこの桜堂さんは、戦後の混乱で満州に取り残された戦争孤児を、早くからいくどとなく満州後に孤児を探しにでかけた方です。心優しき方です。「草と闘う」ブログの一部を割いてこんご順次掲載していきます。
掲載方法はまったく原文というのではなく、今はあまり使わない漢字などはできるだけひらがなにし読みやすく工夫をしました。書かれている内容には手を入れておりません。
シベリア回想録 桜堂 泰
緒 言
戦後早くも30余年の歳月を経た。終戦にともなう前後の思い出、あるいは当時の記録を見たりして、昔に思いをはせ、私の人生の一端がかようだったのだな、然してまた生死を境にした同僚の果て、また多数の日本人の存否が想いだされてならない。複雑に、人生の想い出が空虚な脳中を去来する現在である。
短期間といいながらも私は帝国軍人となった。一転して捕虜の身になる。それがいまや走馬灯のごとく温かい風に吹かれ、捕虜の身の哀れさを忘れたごとく、横切り去らんとする。
忘れがたきあの人生、フイルムの1コマずつを記してみてはと重い筆を走らせている。
当時、国策に沿い渡満した幾多同胞のうち、終戦を境として満州に残された婦女子、老人は、現在いかなる生活をしているのだろうか。幸いにして恵まれた生活をしていると聞くと、心温まる思いがするが、半面孤児、寡婦となった人々には心暗くなる思いである。
残された孤児たちは現在30歳過ぎであるはす、日本人であることがわかれば、彼らは何程か父や母を慕っておることだろう。なんと慰問の方法はないものだろうか。
かの地に残り満人の妻となった婦人たちにも愛の手を差し延べて、慰問してあげたい。
次に捕虜となりロシアの待遇に骨と皮ばかりの体となり、彼の地に永眠した人々の霊を慰めてあげたいも 日本人捕虜の姿は何の写真もないゆえに、お眼にかけることはできないが、アフリカのナイジェリア戦のごとくであった。もし当時(昭和43、44年)のニュース写真を見られるならば、あの衰えた肋骨の一本一本を数えられる人々を思い起こしていただきたい、あの姿が日本人の死亡の姿と同じである。
思い出すたびに襟元が冷え冷えとしてくる。繁栄している今の日本は何か忘れてはいないだろうか。1日も早く対策がほしい。そして彼ら、ロシア以上にあらゆる点で勝ってほしいと思う心は、わたくしだけではないはずである。
感じるままに筆を走らせてみた。一瀉千里の記録不備の点はお許しください。拙文も共に。 昭和51年8月記す。
# by itikawa74 | 2007-12-14 21:14
目 次
1 在満の生活
1 在満の生活(1)
渡満と生活 (昭和13年7月)
お花畑を見る (昭和14年6月)
ノンジャンの冬 (昭和14年3月)
北満の娯楽 (昭和14年3月)
1 在満の生活(2)
馬賊出現と治安 (昭和12年)
平穏な生活 (昭和15~16年)
白城子での生活 (昭和18年3月)
白鳥と鶴の大群 (昭和18年)
聖戦と神話 (昭和18年12月)
大人の悪戯 (昭和15年11月)
2 二等兵時代
2 二等兵時代(1)
赤紙来る (昭和20年5月)
令状と入隊 (昭和20年)
二等兵誕生と生活 (昭和20年)
分 遣 (昭和13年6月)
新兵の心配その他 (昭和20年)
鋸と小刀の小屋作り (昭和20年)
駅に分遣 (昭和20年)
パラソル列車 (昭和20年7月)
2 二等兵時代(2)
本体へ戻る (昭和20年8月)
将兵は苦楽を共にする (昭和20年)
特攻隊の出動 (昭和20年)
敗戦への道 (昭和20年)
退 却 (昭和20年)
武装解除 (昭和20年)
3 捕虜と在露時代
3 捕虜と在露時代(0)
収容所と露軍の略奪 (昭和20年)
収容所の事ども (昭和20年)
悲しい開拓の人々 (昭和20年)
捕虜と生活 (昭和20年)
3 捕虜と在露時代(1)
収容所の移動と食生活 (昭和20年9月)
ロシアへ出発準備 (昭和20年)
興安嶺越え (昭和20年)
国境越え入露 (昭和20年)
露領へ第一歩 (昭和20年10月頃)
3 捕虜と在露時代(2)
露兵の略奪とその他 (昭和20年)
炭鉱街の生活 (昭和20年)
労働の開始 (昭和20年11月)
3 捕虜と在露時代(3)
アライコフへ移動と作業 (昭和20年12月20日)
厳冬の生活と作業 (昭和20年)
哀れな元旦その他 (昭和21年1月1日)
風軍団との闘い (昭和21年1月)
下士の横暴 (昭和21年)
ドイツ人捕虜に会う (昭和21年)
身体検査とその後 (昭和21年)
3 捕虜と在露時代(4)
ロシア土木と種々相(その1)(昭和21年3月)
降格とGPU 昭和21年3月)
ロシア土木と種々相(その2)(昭和21年3月)
捕虜と農作業 (昭和21年6月)
捕虜の炊事様々 (昭和21年9月)
3 捕虜と在露時代(5)
チャイナ本部へ移動 (昭和21年10月)
宿舎内の生活 (昭和21年10月)
1ヶ年前の同僚に会う (昭和21年)
老大尉と従兵 (昭和22年1月)
軽作業種々相 (昭和22年)
日本人将校の装具検査 (昭和20年10月)
チャイナールゴールスカヤの街を見る(昭和22年2月)
ノルマ作業とは
ロシア美人
特殊作業とロシアの組織
4 帰国の種々相
4 帰国の種々相
帰国と種々の事ども
ナホトカ到着 (昭和22年4月)
宿舎生活種々相そして帰国 (昭和22年7月)
身体検査とその後 (昭和21年)
雑記追記
雑記追記
ロシアの飛行場 (昭和22年2月)
黄熱病患者の幸運者 (昭和22年)
# by itikawa74 | 2007-12-14 21:04
1 在 満 の 生 活
渡満と生活
私は土木屋である。岐阜県庁を振り出しの土木技手で岐阜県に5年、その後山形県に出向し、また5年勤務した。当時国内は不景気の風に荒らされ、県庁勤務もあまり魅力もなく、同僚も続々渡満し変わった情報が飛び込んでくる。
昭和13年7月、ついに意を決して満鉄に鞍替えした。大阪天王山埠頭より大連行きの貨客船は、われら50数名を大連に、井の中の蛙も大海に出て始めて日本の小さいことを感じた。私は対岸の見える連絡所を知るだけであったのが経験というものだろう。
大連市街を見る。物価が安い。特に魚類の豊富なことに驚いた。内地では高価なエビも大連では3分の1である。ここからハルピンへ1車両を特別編成して出発した。人員は50人くらいと思うが特別編成の1車両とはまた格別だったのか、待遇のよいのに驚き感謝した。
見渡す限りの平野、沿線の住宅家屋、いずれも珍しいことばかり、だが最後の身の置きどころは果たしてどのようなところだろうか。ハルピンに行くことは知らされているものの、腰をすえるところはどこか不安ながらも、一縷の希望を持ってわが列車はハルピンに到着した。早速鉄道局に案内され、数人一団となり宿舎の割り当てである。白樺の生い茂る中にレンガ造りの住宅、ベッド住いという。この付近はかような社宅が数十戸並んでいた。道路の向こうは白露人の住宅である。満語も知らず、露語も知らず、誰とも話すこともできない。食事は(体に聞いて)本局の食事に通うことになった。
4,5日して通知が来た。全員ハルピン学院入校という。30歳過ぎた中年を今一度鍛えようというのか。何か哀れになる。しかし仕方ない。給料支給されて学校通いも面白い。学院では、社規および満語の講習のみ、余暇の始末には市内を二巡三巡視他。珍しい馬車に二人で乗り、石畳の道路をひづめの音高く走るのもまた格別であった。かような生活が3ヶ月あまり、競馬に行くものあり、見物あり、トランプ・花札等、そのため給料が足らず、質屋にいくものさえ出てきた。あまりに安住な生活でそこが抜け始めたようだ。
各々は在満中は貯蓄に励み、裕福な老後を考えて渡満してきたはずだ。しかし誰一人このことを話し出すものがいない。ただ満鉄は大きいものだなど実にのんびりしている。その内「赴任地の希望は」と来た。いずれ新米の社員はハルピンに就職することは不可能である。沿線の事務所勤務となることは必定である。私は奥地でもよい、開拓者の多い地区を希望していた。発令されてみると北満の果ての地であった。地図を眺めてみる。日本縦断と同じくらいの距離である。いささか淋しく感じたが、このハルピンのごとく内地に住むと同様な土地より変わったほうがよい。満人の生活もよく見られる。且つ又奥地ゆえ生活ものんびりしていいじゃないかなど、考えてみた。
本局にいきなお調べてみると、沿線には各県の入植者があり、近く青少年の開拓訓練所ができる予定とのこと、これは2年後出来上がり八州青少年開拓訓練所となる。赴任地は竜江省ノンジャン県ノンジャンという寒村であり、部隊の駐在地。部隊長は少将であったのを見ると軍事上の一挙点であったかも知れぬ。未知の土地へ複雑な感情を内蔵し出発したが、途中を走りながら外景を眺めるのにまたなんとも淋しくなった。目にはいるものこれ草原であり、人家が見えない。車中はほとんど満人であり、草原がどこまでも続く。駅間は約30キロ位、それでも駅につくと人が集まっている。下車するものもいる。この人たちはどこから来て、どこへ行くのか。穴居生活ではあるまいと考えながら、ままよ、この広い満州に着たのだ。何をくよくよする。今から新天地を開拓するのだ。
チチハル駅についてようやく安堵した。
途中同僚と二人だが、この情景に押され何を語ったのか覚えがない。チチハル駅で二人で宿泊したのも覚えがない。よほど脳中が混乱していたのかも知れぬ。翌日早々出発した。彼は途中の駅で下車した。その後は自分ひとりの旅、駅間はやはり30キロくらいであるため、内地の列車よりスピードはあるが、いかに停車時間の長いこと。本局より800キロあまりの道程の奥地が勤務地である。この付近まで来ると、左右が低い丘陵地となり小高い山あり、谷間あり、地形は内地と変わらない風景である。ノンジャン工務区、この終点が私の拠点であり、保線以外の土木関係の担当者となった。ここより北方に向かって国境沿いの新線が工事中であった。
満州事変の一方の巨頭、馬占山の根拠がここにあったという。
お花畑を見る
赴任以来担当区域の巡回を度々行い、モーターカーを走らせて見た。運転手は満人であり。車両もさほど重くなく、列車が来るころには踏み切りで線路からはずし、通過後また元通りにする。
便利この上なし、また線路のため自動車などよりはるかに乗り心地がよい。随時出発あるいは停車ができるのでよく魚釣に利用した。装甲列車も走る。状況左程危険ではないようだが、この列車は年中駅に来ている。内地ではお目にかかれない。
車両の編成が変わっている。機関車および炭水車は一列車の中央部にあり、車両の両端に兵隊が乗れるようになっている。奇襲に備えたものと思う。ことにこの地方のごとく丘陵のある場合は馬賊の奇襲が想われる。
かような所でも春ともなれば、各谷間に百花繚乱のたとえのごとく一斉に開花する。その美しさ、自然の美は内地の人工美とはまた格別である。赤、青、黄、紫、白、黒および緑などの原色が、広い谷間一杯に咲き出すのである。自然のお花畑を私は始めてお目にかかった。その雄大さ、美しさ、すばらしい情景が頭の中に焼き付けられた。
沿線巡回の折、装甲列車と打ち合わせ、途中このお花畑近くで停車し、乗員一同と花を摘み、これを炭水車に乗せて各駅に配布して大変喜ばれたという。ただ、私は黒い花はここが始めてである。
花咲き終わるころになるとこの付近の草原はカモ、あるいはガンの育雛場となり、黄色の雛が付近の水溜りを遊園地にしている。水上で遊ぶ姿は全くかわいいものであった。
ノンジャンの冬
この地の冬期気温は零下35度、最低40度となる寒冷地帯、戸外では防寒帽にツララが下がり、眉毛も髭も肌に氷で貼り付けとなる。入室してもすぐに帽子は脱げない。氷のために怪我をする恐れがある。ドアーの握り等は、ベタベタと手が金具に張り付くので素手では握れない。
積雪30センチくらいだが粉雪である。風の吹くまま飛び散り吹き上げる。ま
た吹き溜まりができる。溜りができたと見ると、翌日は逆風で地肌が出ている。なんとも我儘な粉雪である。
地下の凍結深度を調べてみると、1月下旬の極寒時に1日中石炭を焚き、夜業をかけて少しずつ掘ってみると、2日間にようやく無凍結深さに達した。その深さ4メートル30センチ、この下は地下水であった。万一この地帯に4メートル30センチより浅く水道管を敷設したとせば、凍結して通水不能となること火を見るより明らかである。
この寒さのため給水施設にはすべて暖房を通し、列車に付属している管には、日中も夜も絶え間なく蒸気を通している。漏れた蒸気は所かまわず列車に張り付き、そのため外部は全く汚い模様となる。この寒冷のため線路がところにより湿気の多いところから凍結して持ち上がり、夏季に比べ1メートルくらいは盛り上がる。作業員は大多忙である。レールと枕木の間にほどほどの厚みを持つ板を挟み、自然と緩やかな勾配を作らなければならない。1日2往復という運転とはいえ、この勾配を取る忙しさ、満人線路工夫は綿入れのような手袋で厳冬の中、この作業をする。水道関係は盛り上がりにより引込線の一部がたびたび破損する。水圧のかかった水は水道管沿いに地表面に噴き出す。この修理には前掲の石炭を焚きながら徹夜の作業となる。勿論、室内でも立ち上がり管が破損する。ストーブやペチカで台所全面を暖かく夜通し保温すれば、この危機から逃れることができるが、石炭を節約すれば必ずこの洗礼を受ける。室内立ち上がり管の継ぎ手が破損すると、ここから水が強いシャワーのように台所に吐き出す。台所は水浸しとなる。管が亀裂するくらいだから室内は零下15度くらいだと思う。そこへ強力な噴水であるからこの家の主婦は自分の失策とはいえ、その報復に泣かされたことと思う。小さな台所は噴き出した水が片端から凍る。このときほど満人水道工夫を有難く思ったことはないに違いない。冬季中私宅の石炭消費量は月3トンを下らなかった。ついでに当時の生活の一部を記入しようと思う。当時内地では一人の日給は男60銭、女40銭、大福1個2銭、60センチくらいのカツオ1匹1円50銭、昭和14年の価格である。この年の暮れの31日の夜は若い日本人には、内地に帰るのが大変で独身寮でゴロ寝となる。
かわいいと思い、
私「君らは内地に帰るだけ貯金しないのか。」
若「旅費がないから寝正月を決めている。」
私「お前の出身地はどこか。」
若「私は宮城、私は栃木、私は茨城、私は石川、私は群馬、私は神奈川。」
私「よし、それでは私の宅で暮と正月をやろう。皆、私の宅へ○時まで来て餅つきを
してくれ、誰と誰は用件ある故昼食後来るように。」
彼らが来たので同伴して魚の買出し、忙しかったことと値段に驚いた。マグロの刺身1切20銭、充分でないゆえ笹鰹1匹40センチ足らずで15円である。
餅をつく、大急ぎ丸めて板の上にのせ、ドアーの外に10分間も冷やすと石のごとく硬くなり、床に打ち付けるとカーンと音がして、変形どころか傷もつかない。安かったのは肉である。ワラジのような大きなカツレツがこの若い連中を喜ばせた。酒は日本酒を利用したが、満州には有名な白酒という強力なものがある。日本人ならばほとんど口にした筈である。なかには愛用している者もいた。料理店では白酒を注文するとボーイは皿とトックリを持ってきてテーブルに置き、皿に少しの白酒を注ぐ。それに火をつけるとアルコールのごとく青い炎がたつ。そこへトックリを置くとひとりでに燗がつくという仕組みである。
白酒のアルコール度数は70を越えるという。アルコールの兄弟である。これを日本酒流に愛用すると腰をとられる。気持ちよく戸外厳冬の中で一服していれば、あのオランダのマッチ売りの娘のごとく、心地よく天国にいけるという。またその通りの現場も見た。満人の宴会は彼らも騒ぐことに変わりないが、深酒はしないという。日本人は無茶というか、この深酒でどれほど多数が天国にいったことか、それも無切符で。
この寒冷の地中で不思議と思うことがある。戸外の生物のカエル、ミミズ、魚等である。カエル、ミミズは凍結深度4メートル30センチはもぐらない。春が来れば地表および地下水際から除々にとける。中間部は最後に融ける。地表40センチくらい融けるとミミズが上層部にいるのである。
また魚類は如何と思い、土取り後の水溜り3メートル位は底まで氷であり、その下まで土が凍結しているのであるが、いざ融け去った水溜りには魚がいるのである。釣り上げることが出来るとすればいかなる天の摂理か寡聞にして判らない。
人間はペチカだ、ストーブだ、暖房だと室温24~25度の中でなければ生きていけないのに彼らは如何にして越冬するものだろう。
北満での娯楽
われら担当線は往復午前1回、午後1回のまことにのどかな線路である。冬期間を除けば仕事らしい仕事がない。
碁・将棋・マージャン。魚つり・ハンティング・映画は時折会館に来る。照国一行が部隊の慰問に来るので、日本人家族共、参加したこともあった。釣りに行けば、銀色のコイ様のもの、銀色のマス及びタイの形体をしたフナがつれる。小物も釣れるが、大きなものは魚店で出ていたナマズである。体長1メートル位、頭は3歳児と同じ程度のものであった。魚網でとったものだろう。
ハンティングの対象は、ノロというメス鹿、ガン及びカモ、その他キジ類である。時に山七面鳥もある。カモ及びガンは沼地の水辺に黒くなるほど集合している。1発で3羽から5羽くらいは落とせる。しかしガンは1羽7キロ位、小さいもので5キロはある。
ノロは10頭から20頭の集団で、女鹿のごとく角がない。静かに近づいていく。しかし彼らの目が早い。見つけると2メートルくらい飛び上がり一目散に逃げていく。追打ちをかけても当たらばこそ、遠くに見えなくなる。
満人がつけたのか、日本人がつけたのかわからないが、山七面鳥と称する鳥がある。これの撃ち方が面白い。彼らは数羽が一団となり草原にいる。大きな鳥ゆえ遠くからも見える。満式の馬車には、それほど警戒しないが人間には100メートルも近づかないと打つことが出来ないゆえ、満式馬車を雇い入れ、周囲を筵で囲み、打ち方はこの中に銃を持って隠れる。鳥から見えるものは馬車と御者、筵の囲いである。かくして鳥の集団の周りをぐるぐる廻りながら鳥との距離を縮めていく。100メートル位まで近づきたいが彼らはまことに警戒する。こちらが近くなると向こうへ遠のく。向こうへ行けばこちらへくる。なかなか100メートルくらいが大変で逃げられないように御者に注意しながら静々と近づく。ここかと思い全員馬車に立ち上がり、単発弾の攻撃だ。見ると鳥の前後に土煙のみ、首を伸ばして馬車を見るなり、静かに滑走を始め50メートル位にして地上に飛び上がった。地上100メートルくらいにして彼らは大きく旋回して、また元の位置の地上に来た。これを見て下から撃ちかける。2羽に命中した。草原でも大きな音を立てて落ちてきた。大きさは15キロと12キロあった。翼長は2メートル位。なぜ、元の位置に戻ってきたか、下に打ち手が待っているのに。多分彼らの同僚が残っていはしないかを見るためか、など考えてみた。
なんとなくセンチになり、狩はだめかとも思った。しかしこの鳥の肉は誠に優秀である。内地の七面鳥など比較にならない。肉類の王様であった。
線路巡回が夕刻になるとよく狼にあう。彼らは列車からの投棄物をあさりに出てくる。線路から30メートル位でモーターカーの過ぎ行くのを眺めている。色は灰色長足短胴で、体型はシェパードと同じである。なんとなく気持ちの悪い動物で狩をするなど出来ない。1頭、あるいは2頭でおり、夕方は特に危険だ
# by itikawa74 | 2007-12-14 20:33
馬賊の出現と治安
渡満1年半位(昭和14年)、聞くところによれば日軍がノモンハンの戦闘で太敗を喫しているという。このようなニュースが伝わってくると同時に沿線には、馬賊の出没が甚だしいことも伝わってくる。50キロ先には、彼らは終日屯して休養中という。ためしに満人を連れてモーターカーを飛ばし、現地で眺めてみた。駅より部落までの距離5キロ位、住宅30戸程度で盛んに煙が出ている。日中このように煙が出ることは馬賊であるという。彼らの食事だ。そのうち騎馬1頭がこちらに向かってくる。
「馬賊ではないか。」
と聞くと、彼は。
「違う。」
という。この一満人が彼らを見分けることが出来るのか、彼らとの関連者じゃあるまいか、と疑ったがやはり翌日の情報には50頭の馬賊が1日休養、うどん粉を略奪し、良馬と交換して山中に引き上げていったという。
その後、駐屯部隊も少尉を先頭に10名位の部下を連れ基盤作戦と称し、線路の両側を調べ対応策を立てていたようだが、この兵隊に逮捕される馬賊は一人もいない。日軍は何となく物足りなく却って、彼らのほうが敏捷である。満馬は軍馬より逆に小さくて弱そうであるが、高原や湿地、草原にはことのほか強いのである。粗食に耐える丈夫な馬であるが、長距離走破には軍馬に劣る。彼ら馬賊はこの点を研究したらしい。悪条件の湿地帯を逃げること、乗馬が疲れた時は部落で新馬と交換し、次々にこの手を使えば日軍に捕らえられることはなしという。
おおよそ50頭の馬賊の休息個所より20キロ遠方のこの地方第1の町が襲われた。話によると、300頭位の大集団で急襲され、急報を聞き街の日人警務課長がドテラのまま役所にはせ参じたはよいが、正門のところで1発でやられたという。この課長にはすまないが、何か手抜かりがあったと思う。相手は生死をかけてくる共産匪「日人を殺せ」という合言葉の彼らなんだ。
翌朝、この赤匪は馬車100台くらい徴発し、町中の食料・衣類を略奪して積み込み威風堂々と長い列を整えて山中どことなく立ち去った。
日軍が到着したときは、影も形も見えない。街にも賊への連絡者がいることだろう。基盤作戦等は用をなさない。何か抜けている。その内、また次の事件が起こるに違いない。何となく心の動揺を禁じえなかった。
現在の終点駅より北方に新線が工事中であり、露満国境まで続く。その内90キロが営業可能と副局長始め、上司が特別編成列車で検分に来た。私も同伴して午前中に終点ホルメン駅につき、所々検分しながら夕刻わが駅ノンジャンに到着した。副局長たちはそのまま帰還した。
その晩、ホルメンが襲われたと通報があった。彼らは迫撃砲で盛んに打ちまくり、社員住宅に入りかっぱらい専門だったらしい。彼らの中に女も3人くらい加わり、前導者は満鉄が雇い入れていた満人ボーイだったという。あいた口が塞がらないというのはこのことか、満人にも注意注意。
女匪賊は日本人の嫁入り衣装を捜し求めていた。同地に10名くらいの駐屯兵がいたが手も足も出なかったらしい。また少数ゆえ控えたのかもしれぬ。この事件で日本人死亡者は2人であり盗賊匪であったが、われら一行を襲う目的であったが、もしそうだとするならば半日違いで危難を逃れたことになる。満州
はやはり危険なところだ。
ある夕刻、日本人線路技術員が日没後モーターカーで帰所途中、わが駅より15キロほどの丘陵の谷間に、30頭ほどの馬賊の集合を見たという。ヘッドライトがその谷間を照らしたらしい。彼らは大急ぎで西方に逃走した。この情報が本部に届いた。満人に聞くと、また当街に来るかも知れぬなどと恐ろしいことをいう。紅匪なら危険である。早速日本人社員の集合となり、警護隊より銃30丁を借用、社宅および駅舎の警備につく。暗い戸外で二人ずつ一組となり各所を静かに巡回した。各社宅では窓側には畳を立てかけ、防弾準備をし、男子は交代で警戒態勢をとった。
かような警戒で2週間も過ぎたころ、突然老山駅(隣の駅)がやられた。以前谷間で発見した場所より約10キロ先の駅である。早速行ってみる。レンガ建ての駅舎は丸焼け、骨のみ残り満人駅員は馬賊馬賊といって震えている、満人住宅を見ると女たちが何か言い合っている。ここの警備分隊には日本人の警長1人のほか満人巡警4,5人ほどでは、又手も足も出なかった。浴衣1枚で就寝中に裏窓を破られたので応戦したが、多勢に一人、表から飛び出して門まで逃げたがついに殉職した。裏窓で短銃数発、表門でも数発の薬きょうが散乱している奮戦の跡が歴然としている。
状況を見て暗然としたのは私一人ではなかった。馬賊騒ぎに中、この僻地の警戒を厳重に出来なかったものか。彼は北海道出身で新婚早々の身、実に情けなく感じた。
寒さに向かうため、かの馬賊は食料の備えに忙しく兵隊はノモンハン、警備が弱い手薄の地を目標にした。鉄砲が足りないので近くの部隊に行く。在隊兵は少ない。皆出動しているために銃器は貸与するほどない。貸し出し不能と断られた。匪賊はこれを知っている。だからかように堂々と暴れまわるのだ。毎日の警備は怠りなく続く。
北満に漸次安住の地を求めようと計画したが危険が一杯。内地生活の窮屈さを逃れて悠々と生活する場所はないのか。しかしながら、ノモンハンの騒乱がなくなると馬賊もピタリと行動を停止した。兵隊は続々帰ってきた。度々駅頭に兵隊を迎えに出た。なんと兵隊のやつれたことか。涙が出た。1中将の戦地報告を聞くに日軍は、全く手も足も出ない。
「優秀な兵力で機械化部隊である。日本人はあちら全滅、こちら全滅、仕方なくビールビンにガソリンを詰め、これを近づく敵戦車に投げつけ発火させてタンク消失を図ったが、逐次見破られて人命のみ損失したと言う。私の体には弾丸7発が入っている」という。しかし、彼の中将は講演中に一言も「日軍は敗けた」とは言わなかった。日軍には「敗け」という言葉がなかったかもしれない。後程いろいろ考えるが、中将司令官のもと(第何軍か判らない)、敵の状況が事前に判らないものか。判らないとすれば、兵員機械等の充実をはかる必要があったと思う。部外者の私など噂に聞くと、荻栖中将は増員を求めても作戦部は反対のため小部隊だったとか。いずれの手落ちにしても多数の兵を殺すことは一小事件では済まされないのではないかと思う。
平穏な生活
昭和14年
ノモンハン事件は残念至極の終局を迎えたが、兵隊も帰り馬賊の姿も見えなく安泰な生活が続く。我が家の家族構成は全員5人、長男は幼稚園児である。天気もよし、日曜である。小輩を連れ、町の日本人商店に何か珍しいものでも買って与えようと乗合馬車を雇い、中心街に行き好きなものを買うと品定めさせこれを買い、満人飯店で昼食を取り、また別の商店でお土産品を買うべく日本製造菓子を求めた。日本製品は「目の抜けるほど」と言う通り、驚くほど高価であった。価格は満鉄生計所よりみれば5割くらい高価である。内地では日給7、80銭くらいと思うが、柿の種混合菓子20円くらい買っても、両方の小指に下げるだけ、商人もどれほど利益を上げていたものか。
帰りはバスを利用して子供たちと後部に席をとった。乗客はまことに少ない。運転席の方に日本人が2人いる。盛んに私のほうを眺めている。そのうちにづかづかと私のほうに来た。
彼「あなたは桜堂さんではないか。」
突然のことなので、
私「ハイ、私は桜堂です。して貴方は?」
というと、
彼「私は、山形の鈴木です。しばらくですね。」といった。
私「言われてびっくり、顔見て思い出した。」
よく顔を見ると鈴木君だ。山形県庁時代の同僚技手である。車中いろいろな
話の末、「何でこの僻地へ来たのか、今夜の予定はどうなんだ。」しばらくぶりの同僚ゆえ、私宅に泊まることになる。広い世間も案外狭い。悪いことは出来ない。この広い満州で内地からの同僚に会うなどは思いもよらぬことである。彼は満州国に奉職し、今回は100頭の馬車と30頭のラクダ隊を引き連れて、ノンジャンを超えて大興安嶺の調査に赴くところであった。江岸に兵糧、動物および人員を集結させているということで明朝は出発という。私より遅れて渡満したので、その後の内地の状況や現満州国土木技術の話で夜をふかし、明朝の出発を考慮し種々の注意やら注文をした。特に集団の馬賊について注意したことを覚えている。
昭和16年
寒い地帯も3年たてば暖かいほうに変わり、子供の成長に合わせなければと思い転勤を申請した。申請を認められチチハル局に勤務となる。ここチチハルは北満一の都会である。
局舎や日本人住宅はまことに立派である。内地ではお目にかかれない。私らの住宅も暖房付のもの。居室も広く申し分ない。本局社員も多数であり、みるところ皆裕福そうである。中には腰弁当で下級社員ながら、15万円もの大福を達成したものもある。みんなの羨望の的である。当時内地で1万余あれば大体生活できた時代である。ホルメンに副局長と同行の折、貯蓄を聞いた。副局長は高専卒以来25年の由、外遊経験者にしてその返事が愉快である。「私は25年勤務者だが、入社以来最低基準の社員貯金を出しているが、4万を越したところだ。来年は満25年になる。来年表彰式には満鉄刀と金一封をもらえる」。当時金一封は不明なるも1万以上の由、副局長は4、5万になるだろう。
副局長は淡々と話を続ける。区長は貯金がいくら出来たかに返事はしにくそうに、「1万もありますかな。桜堂君はいくら。」「そう私は奉職2年ばかりで誠に少々でお知らせは出来ません。」と、「そうか、私が表彰を受けたときは、祝いの電報を打ってくれ。」という。「そうしましょう。」といったが区長も私も電報は打たなかった。
当地に来て以来環境の変化により子供たちは病気、入院の繰り返し、小児科の先生と親しくなってしまいそう。なかなか全快しない。勤務後病院へ、朝自宅への繰り返しが4ヶ月続く。ある日子供を2人連れて保養病院に向かう。こ
こは呼吸器専門病院で、特殊の療法を行う。3日に1回くらいの通院を続けた。この時、内地実母の死亡を伝えられるも、然し帰国が出来ない。出棺時を見計らい三人で東方に向かって合掌礼拝した。ここは駅のホーム東端で忘れることが出来ない。
親不孝ものはただ詫びるしかないものだ。
北満一の都会とはいえ駅舎や社員住宅は良好であるが、これは鉄道局の管轄区域であり、その他は満州流の土塀に土の家屋である。
商店のみ店らしく見えるが、到底内地と比較にならない。2年足らずの生活だが子供たちの病気には降参した。暖かに地方へ移るより他なしと転勤希望、あまりに短期勤務と思い希望通りにいくか否か心配したが、希望通り許可されて
昭和17年白城子へ転勤となる。愉快なことに社員転勤の折は貨車1両無料貸与されるのである。前回チチハルに転勤の折も同様支給された。ただし条件は貨物として70個以上という。われわれの荷物をながめると30個内外であるから規定に程遠い。種々話を総合するに個数さえあえばいいとのこと、早速悪智恵を働かす。できるだけ個数を多く作る。すなわち、1個を3個に、石炭1トンを15袋、洗面器1ヶ、たらい1ヶ、靴2足1ヶの如くして、70個を誰も見ないうち貨車に運び込み駅員を呼んで施錠した。駅員も同じ穴のタヌキ易々諾々として発送した。
白城子での生活
昭和17年
白城子に来てみると、気候も予想通り暖かく、毎日子供たちものびのびしている。私も安心だ。ここは駅より続く例の泥家作りの満人住宅と日人除けばすべて草原であり、山は全然見えない。北方に日人開拓者、20軒ほどの集団が見えるのみ。ここは鉄道の十字路にして、北方はチチハルへ、西は例の激戦地ノモンハンへ、東は首都新京へ、南は奉天大連へと続き、列車も多く軍用列車もよく通る。夏も冬も苦力列車・軍用列車いずれもここで給水給湯する。私も責任上駅頭に出てみる。苦力列車のごときは有蓋貨車に押し込み、施錠して逃亡を防いだらしく、駅についてみると水の欠乏か病弱か2、3人が死亡しているという。
軍用車も有蓋貨車である。すべてが軍命であり如何ともしがたいが、今になって考えればいま少し人情味を持ち、ハガキ一枚の兵隊とはいえ、死に行く若者を大切にする気がなかったものかと思われる。
この列車到着となれば、憲兵が出動して一般人は近寄れない。厳重な警戒体制である。
昭和19年11月上旬と記憶するが、一軍用車が到着した。駅頭には大釜を構え、湯を沸かしてある。車両のドアーを開けて湯場に来る兵隊を見て驚いた。戦闘帽に夏服、地下足袋に竹製の水筒を持って下車したのである。兵隊の一人に尋ねてみた。「出身地は?」「名古屋で招集兵」「職業は?」「洋裁師」「行く先は?」「ハイラル」。逆に彼らは私に質問する。「ハイラルとはどんな所なのか?」「寒さは?」短時間の問答で詳しく話すことは出来なかった。この時期になればハイラルは零下15度になっているはず、この装具で、彼の地まで行くのか。
して竹の水筒はどうしたものでろうか。心中暗澹たるものがあった。
春も早々、余暇を見て釣りに出かけた。竿を担いで草原の水濁りに糸をたれる。小魚が来る、大物は沙汰なし。大河ならと思い。枯れ草をかき分けかき分け嬾江(松花江の支流)を見た。流氷の山だ。ガランゴロンと大きな音をたて、
大小の氷塊が重なり合って流れている。到底釣りにはならない。然し氷塊の間に多数の死魚が見える。川中にいっぱい鰯を散布したような状態である。早速考えた、この魚は凍結深度のどの辺に棲息していたのか、どうして死んだものなのか、絶えることない流氷の音と死魚にただ唖然とした。
白鳥と鶴の大群
竿を担いで流氷を眺める。何か詩的に感じられる。ここは川幅200メートル程度と推測するが、この氷に見え隠れして前方の川岸に白鳥が悠々と泳いでいるのがわかった。なるほど、河岸が湾曲している。流氷が届かない。数羽の白鳥が自然の中で遊泳しているさまは、絵画の中でも見たことがない。釣りを忘れ氷の山を前にして白鳥と自然を眺め、しばらく腰を下ろして眺めていた。われを忘れたとはこのことかも知れない。初めての経験であり、内地では考えられないことである。
帰り支度を始める。もう釣りは打ち切りと腰をのばして立ち上がる。するとどこからかコ-コーと鳥の鳴く声が聞こえてくる。探してみる、天上を見上げた。いるいる、鶴の大群だ。推測ながら高さ千メートル位、円を描き、円径は直径300メートル位、その数7、800羽と思われる。帯状の円を描きお互いコーコーと呼び合い、静かに円が移動し西南方面に遠くなったのである。絵画その他から見る概念では、鶴の飛翔は雁のごとく列をなすものと考えていた。
これを見て私は全く呆然となった。短時間に二つの真実が植えつけられたから
ある。この鶴の大群について疑問とする。これは、この多数の鶴が今まで1ヶ所で棲息していたものではあるまいということ。とすればどのようにして集合したものか、そしてまた何処へ行ったものなのか、円形飛翔は彼らの天性なのか。
このときの鶴の鳴き声が、現在でも私の頭から離れない。私は空前絶後の経験を得た。何か神秘的な行事が目前に迫りくるように感じられた。
聖戦と神話
軍の輸送列車が西へあるいは北へと行く、いずれも竹の水筒、地下足袋である。この服装ではなんともやりきれない気持ちである。毎晩のラジオは皇軍の大戦果を放送している。
われわれは部下満人に聖戦の意義を教え、毎月彼らの給料日には1円程度の
飛行機献納資金に協力を求めた。1円は彼らから見れば一日の給料であるが、誰も反対するものはいない。だが、われらの努力を陰で笑っているようである。
前後の事情をのちほど分析してみるに、昭和19年7月頃我が家の虫乾し中、満人古物商が来て妻に「このモーニングを売ってくれないか。」という。妻は「お前が買ってどうするんだ。」と聞けば「近く米軍が来るので大連まで着て出迎える。」と言ったという。あるいはまた「山海関(万里長城の基点)に持っていけば千円で買っても3千円で売れる。」という。
北支と満州はここを境として、物価は満州の3倍であり、給料も3倍である。北支よりきた社員に聞いたところ、コーヒー1杯15円位が北支では120円とのこと。モーニングも昭和9年に山形で13円であった。今は満州で古物屋が千円であり、北支では参千円という。皇軍は大勝利となると何がなんだかわからない。胸中大混乱である。然し古物商は不屈である。日人を見下げおる。本人と対談してみたいと思うが姿を見せないし、一満人に迷わされるのも面白くないので黙殺した。
一般の生活も不自由になり、甘いものが少なくなり子供用菓子がなくなった。満州の菓子を買ったことがあるが、内地よりのニュースと比べれば上の部類と思う。
「日本が勝利を収めた暁には、協力してくれた満人には米国製の金時計を1ヶずつ進呈するゆえ献金してほしい。」と呼びかけた。だが毎晩のラジオニュースでは、大本営の発表は待たれる中に有望であるが、なぜ戦域が縮小されるのか。
内地の空襲を聞くに及んで流言多々である。日本の天皇は満州に退避されるとか、伊勢神宮の神馬が宮中を駆け回り、天皇の御身を守り続けているとか、あるいはもろもろの武神が陛下の枕元にたち、国の安泰を告げられたとか。
どこから出るものやら全くの神話が流布していた。いまさらとは思えどもおぼれるものは?の様に信じたいものであった。
戦局が逼迫するにつれ、内地爆撃のニュースが多く、北方太平洋上より潜入
のB29が郡山市を爆撃、原町市もやられたという。何か背中の薪に火がついたた様な気分である。
大人の悪戯
白城子の周囲は大草原にして天上よりみれば、この草原の中には住宅あり、湖沼あり、畑ありと思われるが、直立してみる限りは草原しか見えない。が、遥か彼方に泥柳の姿あり、鳥類の営巣場所ありである。秋が来る。野原には背丈以上の雑草が枯れている。思い出せば昭和15年秋頃であるが、例のモーターカーに同乗して沿線巡回の折、一職員がモーターカーを止めた。何をするのかと見ていると、線路そばの雑草にマッチで火をつけた。彼は何も言わない。想像するに線路傍の雑草焼き払いだなと思った。然し火はどんどん北風に吹きまくられてゆく。10時ごろの着火が、午後二時ころは30キロ位横帯状の火勢で、南に伸びてゆく。その火足の速いこと、幅は2キロはあったろう。猛烈な火勢がどこまで続くやら、そして何処で消えたやら、草に隠れて見えない満人住宅は何ほど恐ろしかったか、胸の痛む思いがした。
# by itikawa74 | 2007-12-14 20:28
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